9月19日(月) 小雨

楽しみにしていた三連休も、何もなく

あっという間に過ぎていく。

 

BSで華麗なるギャツビー

どうにもならない感じの恋愛模様も好みで面白かったが、当時の華咲くNYが自分的にはタイムリー。

NYも東京も、かつて華が咲いた時期があった。

華が咲いて、そして枯れたあと。

喪失感も過ぎ去り、何事もなかったように過ごしはじめても、華が咲きそして枯れたことを地面は覚えている。

華は枯れると知っているから、枯れる未来が頭をよぎり、二度目、三度目はうまく咲けない。

華を咲かせることを諦めた土地ができる。

華を見たい人たちは、華を咲かせに世界を歩く。

世界中で華を咲かせ、枯れ、華を咲かせ、枯れ、全てが消耗しきった土地になれば、その次は何が起きるだろう。

私たちは変化を嫌う一方で、変化がなくては耐えかねる生き物だ。

きっと世界のどこかでなにかが起きる。

それが暴力的なことでないといいんだけれど。

 

暴力なんて、現代の文化的な世界ではあってはならないこと。

なんて思って、暴力を非現実的なものだと考える。平和な世界に生きる思考。

でも本当は、平和な社会のどこかで、暴力は起き、命を落とす人がいることが報道されている。

しかし報道されたところで、見ている人間には他人事で、本気で同じことが自分に起こるとは考えていない。

おんなじだ。

どんなにルールで暴力を悪としても、どんなに暴力を罰しても、暴力が現実として実現されない限り誰もなにも言えない。

拳をふるってようやく罰せられても、すでに人は殴られている。

なにもしていない人間を罰することができないのが、人権というもの。

国もおんなじで、ナイフを持つ相手にどれだけ圧力的に言い聞かせても、誰かが刺されたあとに気づくんだろう。

暴力という原始的な行動の前には、言葉も態度もたいした意味が無いことを。

みんなで仲良くしましょうと手を繋ぎ約束をしていても、結局いざというとき誰が助けてくれるのだと思い知る。

刺されたあとで手を添えられても傷は消えない。

そのくせ、誰しもが刺されるのは自分でないと思っている。

そう言い聞かせている。

自分が刺されることなんて、あってはならないことなのだ、楽観的な人たちにとっては。

本当に追い詰められナイフを握った人間には、どんな常識も通じないだろうに。

どうなっていくんだろう。